「嫌われる勇気」って不思議なタイトルですよね
ベストセラーの「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」という本があります。これは有名な心理学者のアドラー心理学の解説本ですよね。
なかなか挑戦的なタイトルですが、
「他人が自分のことを嫌うかは、自分ではコントロールできないので、嫌われないようにしよう、を行動指針にしても意味がない」
が主旨だと思います。
私たちは、他人に嫌われたくないので、いい人であろうとしたり、やりたくもないことを犠牲・ガマンしてやったり、本当の気持ちを隠したりします。
それをしていると、疲れてしまうし、自分も楽しくないことがほとんどです。
自分軸ー他人軸の考え方でいくと、これは他人軸の生き方になります。
なので、自分軸=私がどう思うかを大切にしよう、ということになります。
「傷つく勇気」の方がマッチする気がします
ところで。
「嫌われる」という表現そのものだが、受動態だし、「他人軸」な感情だなと思いました。
嫌われる怖れを持っているのは自分ですが、嫌うかどうかは他人さまなので、「嫌われる」と言っている時点で「他人軸」前提ということになりますよね?
なので、「嫌われる勇気」って聞いたときに、受け身だし、自分軸がないものをよしとする、というなんだか変な違和感がが残る表現だなと感じました。
嫌われることで「自分が」どんな感情を持つかと言うと、
ショック、
だと思いますので、
本当は「傷つく勇気」の方が、自分軸的な表現だと思うのですが、どうでしょうか?
(もちろん、誰も傷つきたくはないですが・・・)
他人がどう感じるかは自分次第ではないのか?
他人がどう思うかは他人の問題(他人の判断にゆだねること)なので、自分の思いを大切にして伝えていくことが大切。
なのですが。
ここでいただいたご質問です。
「他人がどう感じるかは自分に原因があることもありませんか?(だから、相手がどう思うかを気にしないことはできないのでは?)」
その通りだと思います。
自分の言動、ふるまい・・・・何かアクションを起こすことで、相手が何かを感じます。
自分由来ですから、自分に原因はあると言えばありますよね。
これは、主体性、自己責任(アカウンタビリティ)の原則に立ったお話になります。
もちろん、守った方がいいマナー・ルールもあるでしょう。
相手が理解しやすい、協力しやすい表現や態度を工夫する、ということもあるでしょう。それ次第で、相手の感情が変わる可能性はあるので、他人がどう感じるかは自分次第のところもありますよね。
でも、それでもなお、自分がどれだけ相手のためを思って配慮したところで、相手がどう思うかは、相手の感情なので、100%のコントールすることはできませんよね?
忖度してもキリがない、ということです。
他人軸で生きていないか?
もう一つあります。
「他者に、理解してもらいやすい表現・マナーに配慮する」
というテクニカルな話と、
「(きっと、あの人はこれだったらOKだろう、という)他者の価値観や考えを(自分とは相いれなくても)意思決定の基準にする」
という軸をどこに置くのか?という話が
ごっちゃにしない方がいいと思います。
前者の方は、動機が、相手も私もWIN-WINの関係を作るための配慮ですよね?
相手にも意見がある、私にも意見がある、その違いを尊重しながら、円滑なコミュニケーションをとるためのものです。
後者の方は、私の考え、意見は二の次になっているので、結局そこに犠牲や我慢を抱えたまま。
相手にとってはOK,私にとっては不本意、というWINーLOSEの関係です。
自分軸ではなく、他人軸になっています。
(もちろん、他人軸の生き方が、楽で幸せならそれでもありですが、もしそうなら不満や文句はないはず)
この2つは違うので、ほぐして考えてみましょう。
主語を自分にして伝える
伝えたい内容が、自分がどうしたいのか?を基準にしているものなのか、相手がどう思うのか?を基準にしているものなのか?
どちらなのか?
ここがごっちゃになっていると、自分の本心がなんなのかわからなくなってしまいます。
例えば
夫が、仕事が忙しいと言って、なかなか家事をやってくれない。私だって、仕事が忙しくて、大変。お風呂掃除とゴミ捨てだけでもやってくれたらいいのに。
と思っているとします。
伝えたいことは
「私だけ家事をやっていると、心身ともに疲れてしまうし、すでに回らなくなっている。お風呂掃除とゴミ捨てをやってくれたら私は心身とも楽になれる」
と言うことです。
あくまでも、主語は、自分です。
この思いを伝えるにあたって、例えば、夫が耳を傾けてくれやすい週末を狙って話をするとか、伝え方に工夫をする、ことはあるでしょう。
でも、これだって、いくら配慮したつもりでも、うまくいくのかわからりません。
それも含めて、やっぱりわからないことなのですが、うまくいくための作戦として前向きに挑戦できるなら、工夫の範疇ですよね。
もし、ここで、
「夫の機嫌が悪くなって反撃されそうだから、お風呂掃除は諦めて、ゴミ捨てだけを言ってみようかな」
とするのは、妥協なのか作戦なのか微妙な感じがしますが、
前提にあるのが
「夫の機嫌が悪くなりそう・反撃されそう」という不安・怖れです。
本当は両方ともお願いしたいという自分の本心に蓋をしますから、犠牲と我慢ですよね?
これが「他人軸」的な判断の仕方になります。
自分がお風呂掃除とゴミ出し希望ならそれを伝えてみる。
伝えてみないとどうなるかはわかりません。
最終的には、自分の言動が相手にどう思われるか気になるというのは、自分が傷つきたくないという不安、怖れがあります。
誰しも傷つきたくはないですが、傷つく勇気を持てば、挑戦もできるかと思います。
冒頭にお話ししたように、自分が傷つくことと、嫌われることは別モノです。
嫌われないかもしれないし、嫌われるかもしれない。
それは相手次第。
最終的には自分が傷つくかどうか・・・
傷つく勇気を持つということは、主人公が自分にある、状態だと思います。
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